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2020-01-24:

マクドナルド創業者レイ・クロックのサクセスストーリー  糖尿病の52歳で起業!

1902年10月日、アメリカのイリノイ州でチェコ系ユダヤ人の両親の元レイ・クロックは生を受けました。

高校生のとき、第1次世界大戦が勃発すると当時15歳だったクロックは学校を中退して赤十字の救急車の運転手に志願しました。

とはいえ、若いクロックはその他の仲間達と共に休みの日になると、宿舎をはなれて町へでかけると女の子を追い掛け回す生活をします。

そんな中、宿舎に留まってずっと部屋で絵を描いていたのでクロックや皆から変人扱いをされている人物がいました。

彼の名はウォルト・ディズニーといいましたが、誰も彼がのちに偉大となるとはしりませんでした。

その後、ディズニーはフランス軍、そしてクロックはアメリカにとどまり終戦を迎えたのです。クロックは兵士をやめた後、セールスマンをやりながら夜はピアニストやジャズ演奏などをして日銭を稼ぐ生活をしておりました。

20歳になると紙コップ販売のセールスマンとなってそんな生活の中でもやがて結婚をします。そしてクロックは当時珍しい、5種類のミルクセーキを直ぐに作れるミキサーに感心して、奥さんの反対を押し切ってまで独立します。

独立すると、それをアメリカ全土に回って販売する営業マンに転身したのです。

奥さんとは独立の心配から口論もしましたが、クロックは順調にミキサーの売り上げを伸ばしていったのです。しかし13年もの月日が流れ、クロックが50歳を超えると売り上げも次第に落ちていきました。

しかし、そんなある日のことです。なぜか次々と同じタイプのミキサーを求めるお店が多く現れたのです。その店長達は口々に同じことを言います。
「マクドナルド兄弟と同じミキサーを売ってくれ!」

一体、マクドナルド兄弟とはどんな人物なのか気になったクロックは、彼らのお店に自ら訪ねていくことにしました。彼らの店に脚を踏み入れると、清掃がきっちりと行き届いており、ハンバーガー、飲み物、ポテトというシンプルなメニューから驚きのスピードで商品が提供される開店の早いレストランがそこにありました。

8台のミキサーがフル稼働して40杯分のミルクセーキができ、食器はプラスチックと紙ナプキンで効率化して、さらに低価格で1分以内に提供していたのです。

この仕組みを見たクロックはこのレストランをフランチャイズ化することを思いつくと、マクドナルド兄弟に早速話を持ち掛けました。

しかし兄弟たちは実にその店だけでも10万ドルもの利益を生み出しており、一軒家に車3台も所有するなど満足していたのでクロックの話を断りました。

事実、以前も店舗拡大の話を持ち掛けに来たところがあり断ったばかりだったのです。しかし、ここで諦めるクロックではありませんでした。

「全てのリスクをは私が取って、マクドナルドの店は私が作るから利益しかない。」と兄弟に一切のリスクがなく儲かることを説明した結果、漸く兄弟は納得したのでした。

この時、クロックは糖尿病を患い、なんと52歳という年齢でした。しかし年齢とは関係なく、懸命に働き翌年の1955年3月2日には、新しい会社”McDonald's Systems Inc.”を作り、同年4月15日にクロックが直営店1号店をイリノイ州デスプレーンズにオープンしました。

その後も、かつて顔を合わせたウォルトディズニーにディズニーランドにマクドナルドを開くように直接交渉に行くも断られたりしてます。

こうしてフランチャイズの店を広げていくために奮闘するクロックですが、店長に対して品質、サービス、清潔さ、価格の4つの柱だけは、徹底的に守らせました。

フランチャイズてんの展開は財政危機に落ちかけますが、徐々に増えていき、1958年には1億個ものハンバーガーの販売を達成します。

それに乗じて、フランチャイズとしてマクドナルドを展開した人々のかなり多くが億万長者へと変貌していきました。一方のマクドナルド兄弟ですがクロックと決別していました。

なぜなら、クロックが一生懸命働いたのに、全面的な権限がマクドナルド兄弟にはあるので、兄弟は何もしなくてもお金が入っていてクロックはそのことがあまり好きではなかったのです。

そこでクロックは270万ドルを借金して兄弟からマクドナルドを買い取ったのです。その後の兄弟はマクドナルドのセレモニーなどの親善大使として登場していたそうです。

こうした中、1965年にようやく株式を公開すると、1983年にはハンバーガーの売り上げ数累計10億個を超えました。

さらに同じ年に500店舗目の店が開設し、マクドナルドのシンボル・キャラクターとなるドナルド・マクドナルドがデビューします。

すぐに国中の子ども達の人気を集め、子供連れの家族がマクドナルドにやってくるようになりました。笑顔が清潔なお店を心がけ、お店と従業員を大切にした結果、彼らからフィレオフィッシュやビッグマックなどのアイディアを受けてマクドナルドはどんどん成長したのです。

こうして72歳で代表をやめたクロックはその4年後に発作を起こして車椅子での生活となりましたが、そのあとも自らが動いて慈悲活動をしたり、マクドナルドのオフィスにもほぼ毎日出社していました。

その状態でも店長達に電話をして店は清潔であるかどうか、夜の明かりはきちんとついているかを確認していたと言います。

そして1984年1月14日。

この巨大な帝国を作り上げた帝王は齢82歳でこの世を去ったのでした。

そんなクロックもはじめは転職を繰り返しながら糖尿病を抱えミキサーを販売していたただのセールスマンでした。

しかし人一倍リスクを取り人に先に利益を与えたことでもっとも多くの億万長者を輩出し、自身も500億円もの資産を築きあげるようになったのです。

彼は人に先に与え、誰よりもリスクをとることで、多くの成功という名の見えないリターンが返ってくるのだと教えてくれました。

もし貴方が何かを得ようと思ったら、まずはそれを人に与えることを考えてみるといいかもしれません。

幸せをてにいれるためには、失敗やリスクを超えていかなければならない。リスクのないところには成功はなく、したがって幸福もない。

藤原和博氏セミナー「親は子供に何を残せるのか」 藤原和博氏セミナー「親は子供に何を残せるのか」